2016年5月8日日曜日

『姑獲鳥の夏』(京極夏彦|1994年)


僕の好きな作家で、森博嗣氏と双璧を成しているのが、京極夏彦氏です。出版量の関係で読んだ冊数こそ森氏の作品のほうが上ですが、個々の作品の刺さり具合は、京極氏の作品のほうが上回っているかもしれません。それぐらい好きです。

『姑獲鳥の夏』は、京極氏のデビュー作です。1994年に講談社から出版されました。2005年に豪華キャストにより映画化されていますが、ヒットしたのかどうかは分かりません。映像には映像の良さがあるのは理解できますが、京極氏の作品は、活字で読むほうが圧倒的に質の高い体験ができる気がします。

僕はミステリィ好きなので、この京極氏の作品も、基本的には推理小説です。不可解な事件や現象が起きて、探偵役がそれを解く、という骨格。「姑獲鳥」はシリーズものの一作目で、中禅寺秋彦(通称:京極堂)が主人公/探偵役として活躍する作品群は、「百鬼夜行シリーズ」などと呼ばれています。

中善寺は、古本屋の店主であり神主であり陰陽師であり、探偵役としてはあまりない肩書のキャラクターで、事件の解決に「憑き物を落とす」という方法を用います。人智を超えた存在の仕業とも思えるような怪奇、世にも不可思議な事件について、妖怪の名前や性質を当て嵌め、話術で武装した論理的説明によって、落とす。状況を定義することにより、観察・測定・記述可能にするという点で、科学的です。

森博嗣氏のシリーズと京極夏彦氏のシリーズは、理系と文系の両極端に位置する、という評価もあるようですが、個人的には、どちらも論理や科学のルールに則った、そういう意味では理系的なものに見えます。ただ、京極氏の上記シリーズは、物語の舞台が1950年代の戦後間もない日本で、まだ生活環境における学術や情報が圧倒的に不足しており、神秘や怪奇現象がそれとして認識されやすい世界が描かれているため、どこか古典文学的で、文系っぽさが醸し出されているのかもしれません。

「姑獲鳥」のストーリィは、とある病院の娘が二十箇月も身籠ったままであり、また、密室から失踪したとされていたその娘の夫が、あるとき突然死体で現れるといったもの。シリーズ全体を貫くテーマや考え方が提示された作品であり、話としても面白いのですが、正直なところ二作目以降からが本領という印象を個人的には持っており、この作品が一番面白い、とはなかなか言えません。ただ、これを読んでおくと、以降の作品の面白さが増幅されます。

さて、この作品からもお気に入りの文章を引っ張ってみます。作品の冒頭、文庫本で100ページ弱にわたり、中善寺とその友人でメインキャラのひとりである関口との会話があり、幽霊とは何か、宗教とは何か、意識とは何か、記憶とは何か、脳とは何か、心とは何か、といったことについて、この作品/シリーズにおける考え方が説明され、その圧倒的な情報量と論理性に、納得させられます。術にかけられた感じ。そんな会話の中から、特に印象に残っている中善寺の言葉を。

「だいたいこの世には、あるべくしてあるものしかないし、起こるべくして起こることしか起こらないのだ。自分達の知っている、ほんの僅かな常識だの経験だのの範疇で宇宙の凡てを解ったような勘違いをしているから、ちょっと常識に外れたことや経験したことがない事件に出くわすと、皆口を揃えてヤレ不思議だの、ソレ奇態だのと騒ぐことになる。(略)」

これは、日常でも大切にすべきことだと思い、気をつけています。アクシデントや問題が発生したときに、「わからない」「理解できない」「どうしようもない」と思うのではなく、起こるべくして起こったそのことについて、どうして起こったのか、どうすれば解決できるのかをしっかり考える。頭を動かす。当然のことですが、世の中や社会、人間の集団の複雑さに思考停止に陥りがちなので、忘れないようにしたいです。

以上。

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